てらさわホークの『マン・オブ・スティール』評の事実誤認について

基本的に映画というものは、誰がどのように語っても構わないとは思うのだが、それが間違った情報に基づいていたり、劇中で描かれているものを無視しているようなものは、問題があるだろう。てらさわホークという方の「モヤモヤ超大作「マン・オブ・スティール」のスーパーマンが煮え切らない件」という一文が、まさにそれだった。以下に、事実誤認と思われる箇所を指摘してみる。

(…)滅亡したはずのクリプトン星から地球に侵攻してきたゾッド将軍。この狂った軍人とスーパーマンがもの凄いバトルを繰り広げる。(…)派手にブッ壊れる高層ビル、あっという間に崩壊寸前に追い込まれる大都市。地上では瓦礫に閉じ込められた一般市民が死を覚悟している。そういう彼らをスーパーマンが助けるのかと思う。ところがヒーローは彼らに一切、目をくれることすらしないのだ。

まず、これは端的に言って見落としだ。メトロポリスでのアクションの結末では、無辜の市民を虐殺しようとするゾッド将軍と、それを阻止しようとするスーパーマンが描かれているからである。

ついでにつけ加えると「滅亡したはずのクリプトン星」というのも間違いで、ちゃんと爆発しています。母星の代わりに地球を乗っ取るというのが、ゾッド将軍の目的なんですが。

驚くべきことに、本作のスーパーマンはまるで人助けをしない。地球を侵略に来た宇宙人と戦うわけだから、マクロに見れば人類のために奮戦しているのだと言えるのだろうが、しかし地上のアレコレは正直どうでもよさげである。

映画の中盤で、ゾッド将軍の手下のファオラたちと戦う場面がある。その攻撃から人々を守るスーパーマンに向かってファオラは「貴様が1人助けるごとに100万人殺してやる」と凄んでみせる。

この場面の後で、スーパーマンと米軍は初めて協力して敵の基地を破壊しに向かう。単なる「人助け」では事態は好転しないという布石を、映画はきちんと打っているのだ。

クライマックスの大バトルは結局、自分の出自にまつわるあれやこれや、その大いなる悩みの延長でしかない。

そもそも、本作でのスーパーマンの悩みというのは、己の超能力を人助けに使いたいのに、そうはできないという葛藤だった。実際、映画では、水没したスクールバスや爆発する石油採掘基地から人々を救い出すシーンがある。クライマックスのアクションもそうした無償の善意の延長線にあるのだ。


それでも初登場から70年余、スーパーマンはずっと無力なものを助けてきた。コミックで、ラジオやテレビのドラマで、それに1978年の映画で。そういう神にも等しい男であったはずだ。それをそうじゃないものとして描いて、いかにも新しいことをやりましたというのは卑怯だというほかない。

ここで、スーパーマンというキャラクターがまるで70年にわたって不変であるかのように説明しているが、これも間違いだ。バットマンがそうであるように、スーパーマンも時代の流れの中で変わって来た。「神にも等しい男」というのも、そうした中での解釈のひとつにすぎない。


たとえば原色のバカみたいなコスチュームを着て、その胸にはデカデカと「S」の文字が踊る。宇宙人なのに「S」とはこれいかに? という疑問に対して、映画はもっともらしいことを言う。曰くこのSはアルファベットのSじゃなくて、母星での家紋なんです。自由という意味なんですよと。だから何なんだ?

「S」の文字がアルファベットではなくクリプトン星の紋章だという解釈は、別に映画『マン・オブ・スティール』の創意ではなく、かなり前から原作コミックで採用されているものである。


(…)でも宇宙人の胸に「S」と大書してあるのを恥ずかしいことと思うなら、最初っからそんなヒーローについての映画を作ろうと思うんじゃないよと言いたい。

ティム・バートンの『バットマン』や、ブライアン・シンガーの『X-MEN』のように、原作からデザインを替えてしまった例はいくらでもある。バートンは幻の企画『SUPERMAN LIVES』でも、別のデザイン案を検討していた。


しかし、だからといってスーパーマンがその誕生物語で、スーパーマンとして立つことをいつまでもためらっていていいということにはならんのです。(…)スーパーマンは理由も何も関係なくまず人々のために尽くすの! 超人なんだから! そりゃゆくゆくは何かと葛藤も出てくるかもしらんが、登場篇でやるこっちゃないの! それは! 聞いているのかノーランよ!

ヤング・スーパーマン』というTVドラマがある。これは、青年時代のクラーク・ケントが、スーパーマンになるまでの苦悩を描いた大ヒット作だ。『マン・オブ・スティール』にも確実に影響を与えている。


また、原作コミックでも、『スーパーマン アースワン』のように、クラーク・ケントがヒーローになるまでの葛藤を描いて高い評価を受けた作品もある。(脚本はイーストウッドの『チェンジリング』や『ワールド・ウォーZ』の初期稿も手がけたJ・マイケル・ストラジンスキー)ちなみに本作も、クライマックスはメトロポリスでの大活劇である。

「スーパーマンは理由も何も関係なくまず人々のために尽くす」という解釈や「登場篇でやるこっちゃない」という判断も、ひとつの見方ではあるが、おそらく今のアメリカの読者/観客にとっては主流というわけではなさそうだ。


以上、簡単に指摘してみた。このてらさわホークという方の問題点は、1)『スーパーマン』というシリーズの、特に最近の動向を無視している。2)クリストファー・ノーランに全ての責任があると考えている。 の2点でしょうか。前者について言えば、おそらく、クリストファー・リーヴ主演の映画『スーパーマン』以外のイメージを持っていないのだろうし、後者に関しては、ノーランを非難しているように見えて、実は過大評価していることになる。だって、彼が「ノーランが勝手にやったこと」と考えている事は、たいてい前例があるのだから。