『GODZILLA ゴジラ』

GODZILLA ゴジラ アート・オブ・デストラクション (ShoPro books)

 本多猪四郎監督の『ゴジラ』は、唯一無二の傑作として神格化されると同時に世界的なメジャー・コンテンツの出発点でもあるという、ユニークな立ち位置にある映画だ。今回のハリウッド・リメイク版は、偉大なるオリジンに対するオマージュを込めつつも、あくまでもビジネスライクに怪獣映画というジャンルを手際よく再生してみせた。

 大怪獣ゴジラが、核兵器や空襲の隠喩であるという解釈はポピュラーなものであるが、本作もそうした原イメージに寄り添いつつも、内実は大きく異なったものになっている。事前に公開された予告編では、災厄としてゴジラが人類に襲ってくるかのように編集されていたが、実は、別の怪獣が登場して、ゴジラとバトルを繰り広げるという「対決もの」だったのである。

 今回の『GODZILLA ゴジラ』では、ゴジラが全身像を現す場面は、後半に集中している。この点については、監督のギャレス・エドワーズ自身が、クリーチャーを出さないでじらす古典的な手法であると、繰り返し述べている。なるほど、初代の『ゴジラ』も、エドワーズがテクニックを引用しているスピルバーグの『ジョーズ』も、エドワーズ自身のデビュー作『モンスターズ/地球外生命体』も、そのように作られているし、多くの論者が、そうした構成上の問題として好悪を述べてもいる。しかし実は、ストーリー上でも、そうせざるを得ない理由があって、要は「ゴジラは人類の敵ではない」という設定がバレるのを先伸ばしにしているのだ。悲惨さをあまり強調すると、ゴジラが英雄になるラストに説得力が生まれない。

 怪獣王ゴジラと敵対する悪役として登場するのが、ムートーと呼ばれる新怪獣であり、従来のゴジラが孕んでいた核の隠喩を一手に引き受けている。しかし、その内実は、かつての『ゴジラ』とは正反対と言ってよい。なにしろ、むかし行われた核実験は、怪獣を退治するためだったという事になっているのだ。この逆転の発想はたしかにユニークで面白いのだが、過去の過ちを正当化しており、不謹慎のそしりは免れまい。

 この件にかぎらず、本作における核をめぐるイメージは、従来型のハリウッドスタイルを一歩も出るものではない。日本で起きた原発の事故は、怪獣が原因とされることによって、現実の行政や産業が抱える問題にまでは届かない。クライマックスで核兵器が使用されるが、沖合いで爆発させさえすれば、汚染の心配も何もいらないという脳天気ぶりは、『トゥルーライズ』や『ダークナイト ライジング』と同様である――後者の製作は本作と同じくレジェンダリー・ピクチャーズ――。一応、渡辺謙が演じる芹沢博士が、ヒロシマの原爆を引き合いに出して、核攻撃に反対するくだりはあるものの、映画全体の流れからすれば、単なる「アリバイ作り」以上のものとは言えないだろう。

 この場面にかぎらず、芹沢は、映画において、さまざまな意味づけをおこなう。ゴジラが自然の側にたつ存在であり調和を壊すムートーを排除している、という設定も、ただ彼がそう言っているからそうなのであって、劇中において、それ以上の根拠があるわけではない。別に本作のゴジラは日本を襲ってはいないのだから、日本人がより詳しいというわけでもないのだ。渡辺謙はリアリティをもって役を演じているものの、東洋人によってクリーチャーの正体が説明されてしまうというのは、一種のオリエンタリズム的な手法と言える――『グレムリン』の中国人や『モスラ』の小人姉妹のように。

 このように、『GODZILLA ゴジラ』は、単にジャンルとしての怪獣映画を再生するにとどまらず、『ゴジラ』第1作が持っていた禍々しいイメージを換骨奪胎することに成功している。『パシフィック・リム』や『アベンジャーズ』でも、核兵器を使うことの逡巡が描かれつつも結局は使用していたが、『GODZILLA ゴジラ』もまた、そうしたハリウッド大作の作劇術を無理なく踏襲し、娯楽大作としてバランスのとれた作品に仕上げているのである。