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『ドラえもん のび太と鉄人兵団』

映画ドラえもん のび太と鉄人兵団【映画ドラえもん30周年記念・期間限定生産商品】 [DVD]

 『ドラえもん のび太と鉄人兵団』は、劇場版『ドラえもん』シリーズの第7作にあたるが、これまでの6作と明確に異なっている点がある。タイトルだ。『のび太の恐竜』に始まるシリーズは、いずれも「のび太の◯◯」というサブタイトルで統一されてきた。それが本作で初めて「のび太と◯◯」というフォーマットが採用され、以後のシリーズでは“の”と“と”の混在が現在まで続いている。まあ、些細といえば些細な話なのだが、なぜここで統一感をみすみす放棄してしまったのか、奇妙といえば奇妙ではないか。

 そもそも第1作『のび太の恐竜』というタイトルは、原作となった短編マンガをそのまま使用したものだ。のび太が恐竜の卵を孵化させて育てるが、やがて離別の時がくる……というプロットは、『仔鹿物語』や『野生のエルザ』といった動物映画を下敷きにしたようだ。ここでの“の”は、単純に「所有」を表しているのだろう。英語にするなら"Nobita's Dinosaur" だ。

 第2作『のび太の宇宙開拓史』の原作は、初めて映画化を想定して執筆されており、『シェーン』や『ヴェラクルス』といった西部劇へのオマージュに溢れた内容になっている。タイトルの「宇宙開拓史」とは『西部開拓史』だろうし、「のび太の◯◯」というフォーマットも、ここでは『マルクスの二挺拳銃』あたりを意識していたのかもしれない。以後の『映画ドラえもん』も、ジャンル映画への愛情に満ちている。『のび太の大魔境』は秘境冒険、『のび太の海底鬼岩城』は海洋冒険、『のび太の魔界大冒険』はファンタジー、『のび太の宇宙小戦争』は言うまでもなく『スターウォーズ』だ。「のび太の◯◯」という表記は、こうした映画の世界を『ドラえもん』の世界に持ち込んでいる事を示しているのだろう。

 さて、『のび太と鉄人兵団』であるが、ここで参照されているジャンルが「ロボットアニメ」であることは明白である。ならばタイトルも「のび太の巨大ロボット」か「のび太のロボット戦争」であっても一向にかまわなかったはずなのだ。しかし、そうはならなかった。

 いかなる経緯で企画が立てられたのかはともかく、原作者の藤子不二雄にとって、ロボットアニメが過去の映画のように愛着のあるジャンルでなかった事は容易に想像がつくし、それどころか、かなり批判的だったのではないかとも推測できる。映画の前半に印象的な場面がある。ザンダクロスと名付けられたロボットが鏡の向こうの世界でビームを誤射し、高層ビルが灰燼に帰すくだりだ。のび太たちはその威力におののき、ザンダクロスを封印する事で合意する。この禍々しい場面は、しかし物語の上では、あまり意味を持っていない。このあと、のび太はすぐ隠し場所を他人に明かしてしまうし、後半、鉄人兵団の侵略に立ち向かう際には、ロボットを使うことを躊躇しないからである。この場面は、「近頃のアニメで流行の巨大ロボット物とは、つまりは兵器の賛美である」と指摘するためにだけあるようなのだ。

 こうしたジャンルとの冷めた距離感は、ザンダクロスの杜撰な扱いに反映されている。自律するロボットたちの世界から送り込まれているのに、人間の乗るコックピットがあるのが、まず設定として奇妙だし--原作では土木作業機だという苦しい説明がある--その後の戦闘シーンで、のび太が一度も操縦しないというのはジャンル物としておかしい。そもそも、映画の後半は、しずかと鉄人兵団の送り込んだ少女型アンドロイドとの確執と和解が物語の中心となっており、ザンダクロスは、いてもいなくとも構わない存在にまで後退している。なにしろラストシーンで、誰も別れを惜しんでいないのだ。物語を転がしていくための小道具としてすら利用されていない。「山びこ山」や「空気砲」といったひみつ道具の方が、よほど役にも立ったし印象にも残っている。

 どうやら、ロボットは恐竜のようには愛されなかったし、ロボットアニメは西部劇のように愛されなかった。「のび太と鉄人兵団」という、二つの固有名詞を並列したタイトルは、そうした距離を反映するための苦肉の策だったのかもしれない。