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『シン・ゴジラ』は、あまり新しくなかった

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シン・ゴジラ』は、もし現代社会に巨大怪獣が出現したら、政府与党や官僚、自衛隊はどのような対応をするかを、できうる限りリアルにシミュレーションした映画である。と言うか、本当にそれだけの内容しかない。民間人の姿は点景でしか描かれず、マスコミは政府の発表を伝えるだけ、野党の存在もほぼ無視されている。要は、それらの存在は、この国を左右するような力を持たないと初めから見なされている。

 この映画では、まず非常事態に対応する官僚や政治家の、会議などでの言動が、細かいディティールのもとに描き出される。その物量は確かに圧倒的なのだが、それ以外の部分になると、いかにもアニメっぽい不自然な「決め台詞」が頻出し、一気に作り物めいてしまう。つまり、取材に基づいて動かしているとおぼしき部分についてのみ、ある種のリアルっぽさを演出できているわけだ。(だから”米上院議員の娘”の石原さとみのような役になると、徹頭徹尾うそっぽい)

 宣伝では、『シン・ゴジラ』に初代『コジラ』への言及がない事が画期的であるとして盛んに宣伝されているが、むしろ重要なのは、劇中で9.11や、3.11といった、大きなテロや災害、事故などへの言及が全くない点にある。(たとえば、ゴジラ原発に被害を与える可能性について触れても、誰も過去の事故は引き合いに出さない) 初代『ゴジラ』では「また疎開か……」といった台詞など、直近の戦争の記憶を、さまざまな場面で喚起していたのとは対照的である。
 これは、この映画で提示しているものが、最近の災害を下敷きにしたシミュレーションごっこでしかない事と無関係ではないだろう。いくら精巧に作りあげたところで、模倣は模倣でしかなく、本物と比べてしまえば迫力は雲散霧消してしまうから触れようがなかったのではないか。

 映画のもう一つの軸は、自衛隊による戦闘シーンとなるわけだが、これも面白くならない。そもそもゴジラは「通常兵器が効かない」という設定なので、一進一退をスリリングに描き出すのは難しいし、じっさい成功していない。攻撃が命中→登場人物が「やったか?」→生きている、といった「お約束」を二度、三度とくり返していたのは、さすがに呆れてしまった。

 最後の決戦をのぞき、あまり役に立たない自衛隊ではあるが、組織としても隊員個々人としても、常に冷静沈着で理性的であり、政治家たちとは違って、効率的にふるまう有能な存在として描かれている。彼らが国民を守る組織であることが何度も強調され、クライマックスでは主人公が、わざわざ「感動的」な演説まで披露するのだ。

 その一方で、自衛隊の攻撃命令に踏み切れない首相の優柔不断ぶりが強調され、市民の避難の遅れが足かせのように描かれる。好戦的な防衛相の言いなりに命令を出す首相は、後にゴジラに潰されてあっさり退場するが、死を弔う者さえなく、主人公に、いくらでも代わりが出てくるのが日本の良いところだと(皮肉を込めてとはいえ)断言される始末である。

 この映画の物語が表現するメッセージを愚直に受け取るならば、緊急時においては権力者は独裁的に振る舞うべきであるという、まるで「緊急事態条項」を正当化するかのようなプロパガンダになりかねない。少なくとも、民主主義的な手続きがプラスに働くという描写や台詞は、この映画には皆無だ。(庵野秀明がお手本としたらしい岡本喜八の『日本のいちばん長い日』との決定的な相違点だろう)

 日本の危機が、ゴジラそのものよりもアメリカ(劇中では誰もが「米国」としか呼ばない)の介入であるというパターンにも戸惑った。東京に何かあるとアメリカがちょっかいを出してくるのは、押井守の『機動警察パトレイバー2 the Movie』や大友克洋の『AKIRA』(漫画版)など、80~90年代のオタク作品にありがちなパターンだったのだが、2016年になってまで、こういう水準で来られるとは、悪い意味で想定外だった。アメリカの政治家は顔を映さずに描くといった幼稚な演出にも疑問符がつく。何より問題は、「米軍の核攻撃を未然に防ぐためにゴジラを倒す」というカウントダウンの設定で、これでは、核兵器の方がゴジラより怖いという事になってしまう。実際、物語は終盤にいたって大きく失速する。

 ラストの対ゴジラ戦は(観る前から何となく予想はしていたのだが)庵野秀明の旧作「帰ってきたウルトラマン/マットアロー1号発進命令」と「新世紀エヴァンゲリオン/決戦、第3新東京市」のリメイクだった。どうして、過去作品のシチュエーションの焼き直しで何とかなると思ってしまったのだろう? 昭和特撮のBGMを使ったり、意図されたチープさではあるのだろうが、人智を超えた存在とまで(劇中で)言われていたはずの大怪獣が、倒壊したビルの下敷きなって無様に倒れるあたり、もはや別の映画を見ているようだった。放射能を撒き散らした怪獣が冷却されて停止するというオチも、原発の安直な比喩という感じで、まったく感心しない。

 それにしても、映画全編を通じて、日本は凄い、日本は素晴らしいと、登場人物が誰彼となく主張するのも気になった。おそらく『シン・ゴジラ』という映画自体が、ギャレス・エドワーズ監督の『ゴジラGODZILLA』と比較され、日本スゴイと連呼する批評がたくさん書かれるのだろう。そういう意味では、時節というものを巧みに読んだ映画ではあるのかもしれない。