てらさわホークの『マン・オブ・スティール』評について・ふたたび

先日、てらさわホークさんの「モヤモヤ超大作「マン・オブ・スティール」のスーパーマンが煮え切らない件」というレヴューについて感じた疑問点について、「てらさわホークの『マン・オブ・スティール』評の事実誤認について」という記事を書いたのですが、これに対して、てらさわさんからブログで「『マン・オブ・スティール』批判への批判に答える」という応答をいただきました。ありがとうございます。

前回の記事では、以下のように指摘しました。「このてらさわホークという方の問題点は、1)『スーパーマン』というシリーズの、特に最近の動向を無視している。2)クリストファー・ノーランに全ての責任があると考えている。 の2点でしょうか」 これらについても丁寧な回答をしてもらえましたので、レヴューと合わせて改めて検討させていただきます。(以下、引用はレヴューを斜字、ブログを太字で区別します)

まず、1点目について。てらさわさんの自己申告によると、実は原作の『スーパーマン』についても詳しいのだそうです。「知らずにいろいろ言っているわけではありません」と主張されるのであれば、こちらとしても特に疑う理由もないのですが、それでも、どうして原作の内容を無視したレヴューを書いたのか、という疑問は残ったままです。

例えば、「原作のスーパーマンだってもうずっと悩めるヒーローだということ」をご存知だったそうですが、それなのに、スーパーマンのキャラクターを「神にも等しい男」ですとか「理由も何も関係なくまず人々のために尽くす」などと説明するのは、読者に対して嘘をついたということになりませんか?

また、てらさわさんは「何も映画が勝手に設定をでっち上げていると言いたいのではない」とも仰っていますが、「それをそうじゃないものとして描いて、いかにも新しいことをやりましたというのは卑怯だというほかない。」といったフレーズを、それ以外の意味に解釈するのは非常に難しいでしょう。

スーパーマンのSマークについても、「地球のアルファベットではなくてクリプトン星における家紋なんだという設定についても、これは78年の映画ですでに語られていたこと、およびコミックでもそうした設定になっていることも承知しています。」とのことですが、だったら何故「宇宙人の胸に「S」と大書してあるのを恥ずかしいことと思うなら、最初っからそんなヒーローについての映画を作ろうと思うんじゃないよと言いたい」なんて文句が出てきたのでしょうか。もしも原作を知らない人が、この箇所を読んだら、<この映画では宇宙人が英語を使うのは変だから宇宙語という設定に変えているが、そうしたリアリティの追求は原作に対する冒涜でしかない>という主張であるとしか解釈できないと思うのですが、いかがでしょう?

2点目について。「アメコミ・ヒーローが葛藤したらそれでリアルな人間が描けていると褒められ、押しも押されぬ大監督になったノーラン」などという揶揄からもうかがえるように、クリストファー・ノーランがアメコミ映画に持ち込んだ(とされる)リアル志向がお気に召さないようです。

しかし、『マン・オブ・スティール』は、てらさわさんの言うように、「いまスーパーマンの映画を作るにあたって何かこう、リアルにやろうという目的があって」作られた映画だったのでしょうか? だって、宇宙人が空中でどつきあいをするような作品ですよ。確かに昔の『スーパーマン』に比べれは、特撮もディティール描写も飛躍的に進歩していますが、同時代の、例えば『X-MEN:ファースト・ジェネレーション』や『アベンジャーズ』などと比較して、ことさらリアリズムを強調しているとは思えない。むしろ、最近のアメコミ映画としては、これくらいが水準でしょう。

主人公の苦悩にしても、『アメイジングスパイダーマン』や『キャプテン・アメリカ』といった、他のヒーロー誕生譚の方がよほど深刻な描き方をしています。あの楽天的な『アイアンマン』ですら、続篇2作ではあれこれと悩んでいるわけですし、『マン・オブ・スティール』がことさら異端というわけでもない。

なるほど『ダークナイト』トリロジーは、それまでティム・バートンやジョエル・シューマカーが手がけたファンタジーとしてのバットマンから、よりリアルな犯罪映画的スタイルへと舵を切り、高い評価と興行的成功を得たわけですが、今回のスーパーマンについて言えば、そこまでの劇的な変化があったとは思えないのです。てらさわさんはレヴューの冒頭で「そんなノーランが今度はスーパーマンをやるという。嫌な予感がした。」(太字強調は原文ママ)と書いていますが、そうした先入観に縛られてしまっているのではないでしょうか?

ブログでは、エキサイトレビューから繰り返して、ラストのアクションシーンについての違和感について細かく書かれていますが、すでに前回の記事で取り上げたので、ここでは省略します。問題なのは、この場面も含めて、作品を気に入らない原因をすべてクリストファー・ノーランに帰している点でしょう。

しかし現場を任せたとはいえ、脚本家のデヴィッド・ゴイヤーと一緒にストーリー原案を書いたのはノーランですね。スナイダーが監督として加わった時点で映画の方向性は決まっていただろうと思うわけです。そのことでもってノーランノーランと言っています。」というのが理由だそうですが、これではザック・スナイダーは単なる雇われ監督あつかいであり、非常に気の毒です。(個人的には、てらさわさんがこだわっている人命軽視の傾向こそが、スナイダーという作家の資質だと思うのですが、これ以上は触れません)

アクションシーンに話を戻すと、製作総指揮&原案のクリストファー・ノーラン*1と、監督のザック・スナイダーのどちらの個性がより現れているかと言えば、それはスナイダーに決まっています。スナイダーは『ウォッチメン』でもマンハッタンを壊滅させていますし、ノーランは、アクション場面でCGは使いませんから。そもそも「画面上の見え方」を批判するのであれば、それは演出したスナイダーの責任を第一に問うべきではないでしょうか。あるいは「物語上の構成」に文句をつけたいのであれば、脚本のデヴィッド・S・ゴイヤーに向けて言えばよいでしょう。

もっとも、てらさわさん自身も、ここまで執拗にクリストファー・ノーランを攻撃するのか良くわかってないんだそうです。「どうしてノーランにはこんなにカリカリしてしまうのか。なぜだ!そのことについてはもう少し考えていかなくてはならないと思います。」 相手を「卑怯だというほかない。」とまで難詰しておいてこれでは、「なぜだ!」と叫びたいのはノーランの方かもしれません。

*1:エキサイトレビューでは脚本とありますが、これは間違い